家族写真の漂泊

先日、コダクロームに写された家族写真が一枚売れた。

その写真には水平線が写され、海中から一人の人がぽつんと頭を出していた。この写真は京都で亡くなった老人の家の整理で出てきたもので、他の写真から推定するに年代は1950-60年代である。家族写真の一枚として元々保管されていたものが、持ち主が亡くなったことで、赤の他人の俺の手元に渡り、そして写真に惹かれた人の手元にさらに渡っていった。

家族の思い出の記録として撮られた写真は、芸術を目的として撮られたものとは何かが違う。その違いの一つが強烈な私性だろう。一般に、家族写真を含めプライベートな写真は撮影者を中心とした親しい人々のうちで、隠しているという意識もなしに秘匿されている。居間や暖炉の上に飾られた写真などいくつかの例外状況も考えられるが、そのような場合でもそれらの写真は他人に鑑賞させるために飾られているのではなく、第一にその写真に近しい人達が見るために飾られている。大抵のプライベート写真は他人にはあえて積極的に見せるまでもないものとして扱われている。そして、その写真は撮影された当時を想起するための媒介的な手立てとして見られ、人々はその写真を通じて様々な会話を交わす。プライベートな写真の私性とは消極的な秘匿性と想起のための手立てであることとして特徴づけられるだろう。

さて、そのようなプライベート写真を赤の他人である我々が見るとき、写真と写真を見るもののあいだに何が起こるのか?

見るものはその写真が指し示す出来事を想起し得ない。過去に起きたであろう出来事を指し示すだけの写真は、我々にその出来事について口をつぐみ、一切を語らない。その写真はまるで故郷を離れた根無し草のようである。写真にとって我々はまさしく異郷であり、異郷の者である我々に対して写真はそもそも語る言葉を持ち得ていないのである。それでも、本文の冒頭で書いたような両者の交感が生じるのはどのようにしてなのだろうか?いかにして我々は写真の声なき声を聞きうるのか?

それはオリエンタリズムにも似た異国趣味や漂泊する写真の異郷性が我々に喚起させる郷愁(ノスタルジー)によって可能になるのかもしれないが、まだ今の所はっきりと断定できることは言えない。しかし、私的な写真の私性がすでに消え去ってしまったという事実に基づいて、そしてそこから出発することによってのみ私的な写真と赤の他人の我々の交通の内実を語ることが可能になるだろうし、語られるべきである。そして写真が再び生きる場所を得られることを願いつつ…。

コダクロームに撮影されている。冒頭の写真はこの写真を壁に投影したもの。 右の黒い部分は塀で、白い犬を抱えたワンピース姿の女性が写されている。よく見ると女性の足元に小さな犬がいる。

家族写真の漂泊” に対して2件のコメントがあります。

  1. かずなり より:

    いい写真ですね。壁に投影したやつは怖いけど。「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」ってゆうドキュメンタリー見たことありますか?もしなかったらお勧めします。家族写真の漂白とは関係ないけど、死後人手に渡ったものすごい数のフィルムとネガが人を魅了して止まないという。

    1. hijiteme3103 より:

      大好きな写真です。「ヴィヴィアン・マイヤー」は名前だけはたしか聞いたことあります。また今度見ておきますね。

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